手のひらサイズの黄色い樹脂が、右へ、左へと揺れている。リビングの時計を思い出した。父の懐古趣味を体現するような振り子時計。自室から離れて食卓を囲むときは、おもりの円盤が返す金色に、視線をじっと置く。昔からずっとそうしてきた。けれどあの振り子を、再び目にすることは無さそうだった。
チューブの先に取り付けられた、ちゃちな酸素マスク。それは荒々しい着陸の衝撃を受け、時間を刻むどころか、乗客の不安をあおるように暴れていた。
私はおでこの青あざをさすった。痛みはしつこく残ったが、それよりも、内出血をコンシーラーで隠せるかどうかが問題だった。
天井の照明は落ち、足元の誘導灯が暗闇にぼんやり浮かんでいる。やがて、壁の一端がオレンジに染まった。乗客の身体と座席に濃い陰影が差し込み、あんなに広く見えた機内の壁に、じりじりと押しつぶされるような感覚が走った。
前方の席でアロハシャツの男性が立ち上がり、
「火だ! 早くここから出してくれ!」
両腕を掲げてわめき散らした。それを皮切りに、あちこちで怒声や悲鳴が上がる。お手本のようなパニックに、私は思わず鼻息を漏らした。
「おい、シートベルトはちゃんとしておけよ」
隣で父が低くつぶやいた。頭上で点灯するランプを注意深く見つめている。こんなときですら、父は感情を見せようとはしなかった。
「……ねぇ、逃げたくならないの?」
非常口を目指し、通路へなだれ込む乗客たちの波。乗務員の懸命な誘導はむなしく、たちまち騒ぎに呑まれていく。
「俺たちには俺たちの責任がある」深く刻まれたしわが、さらにくしゃりと歪んだ。「自分だけ逃げるなんて無責任な真似をすれば、乗務員の仕事を邪魔してしまうだろう。空中分解を止めるのは、子どものお前じゃない」
「……無責任、ね」
あの振り子は私を傷つけなかったが、癒すこともなかった。ただ、左右に揺れるだけ。
眉を寄せるたび、額がズキズキした。手荷物や脱げた靴、ブランケットが散乱し、通路には飲み物と漏れた何かが混じった液体が広がっている。
「そういえば、新しいカップが要るだろう。もう注文したのか?」
「まさか。ドタバタだったし」
「俺が選んでおこうか? 渋いのは苦手だったか」
「……べつに」
そのとき、ひときわ大きな悲鳴が上がった。
人波がいっせいに崩れ、押し合う乗客たちが通路になだれ込んでくる。誰かが座席に激しくぶつかり、通路側を捉えていた視界がぐらりと傾いた。
次の瞬間、バランスを崩したアロハシャツの男性の後頭部が、スローモーションで眼前に迫った。
「おい、着いたぞ」
ふいに頭を上げると、さっきまで町並みを切り取っていた窓の向こうは、いつの間にかコインパーキングの色あせた看板に差し替わっていた。
手元の画面では機内の映像がぼやけ、
〈──この場面における適切な避難案内を確認しましょう〉
という太字が中央に浮かんだ。続いて対応の要点が箇条書きで表示されていく。私は研修用のeラーニング動画を閉じ、シートベルトを外した。
すぐ隣には、アパートメントのエントランス。背は低いが築年数が浅く、最寄り駅は空港へのアクセスが良好だった。ドタバタの引っ越しにも関わらず、良い物件を引くことができた。
荷物をすべて部屋に移すのに、三十分もかからなかった。私は西日から目を背けつつ、駐車スペースへと戻る父の隣を歩いていた。
『綺麗なところだが、スーパーまでの距離だって重要だぞ』
『ショッピングモールが近いから。これから買い物に行くつもり。マグも──』
携帯の呼び出し音が鳴り、父の足が止まった。その口元が、わずかにこわばる。『はい、もしもし──』端末を耳に当てているが、スピーカーから吐き出される罵声は私にも聞こえるほどの音量だった。
やがて通話を終了すると、
『……まあ、母さんのことは任せろ』
そう言って、父はパーキングの入口に足を踏み入れた。
『……ねえ、本当にあの家で余生を過ごすつもり?』
『それが、俺の務めだからな』
『そういうことじゃなくてさ……』
トートバッグの肩ひもが手のひらに食い込む。いまごろ父の車は、数十キロ先だろう。
「無責任で、悪かったね」
左右に揺れるだけの振り子時計。理屈で話すことしか知らない人。結局、最後まで本音で通じ合うことなどなかった。
雑貨店のワゴンに、キッチン用品が無造作に並んでいる。母に投げ壊された、お気に入りのマグカップ。その代わりが必要だった。青あざの痛みに眉をひそめつつ、ワゴンからてきとうなマグをひとつ手に取る。
──この場面における、適切な避難案内を確認しましょう。
マグの耐熱ガラスが顔の輪郭をかたどる。コンシーラーで上塗りされたおでこが、ぼんやりと浮いて見えた。