このようなかたちで彼の像を残すことになったのは、やはり残念でならない。「■氏(便宜上、以下 A 氏)」をめぐる証言収集を重ねてきたが、得られた語りはいずれも、当初想定した到達点からはむしろ遠のくばかりであった。
僕が求めていたのは、ただ彼と再び出会うための手がかりにすぎない。
ところが、情報を募り、その所在を探ろうとするほどに、僕は自分がいったい何と出会おうとしているのか、その輪郭をかえって見失いつつある。
◆
「コバセンも来てたんでしょ? みんなとお酒、飲んでみたかったな」
学年色のリボンを巻いたアルバム。陸上記録のプレート。棚の一角を横目に、写真立てを手にして戻る。ミニテーブルの上の散らかりを奥へ寄せると、ピンクの天板にヘアオイルとマグカップの輪染みが二つ、浮いていた。
「成人式のときはコロナで集まれなかったもんね。でさ、小林先生、ようやくタイムカプセル配ってくれたのよ」
「わ、あったわそんなの! ハタチの自分に宛てたやつでしょ? 私、めっちゃ恥ずいもん入れた気がする」
ウェットティッシュで輪染みを拭き取り、写真立てをそっと据える。ガラス越しに、昔の真衣と絵里。肩が触れ合い、二人の笑いじわが同じ角度で寄っている。
「確かめてみよっか? 持ってくるからちょい待ち」
「……へ? なんで絵里のとこにあんの?」
「先生が『送ってやれ』って。うわこの缶、懐かし……真衣の部屋にあったやつじゃん!」
スピーカー越しの声が遠のく。代わりに、コツコツと缶を小突く音が響いた。
「開けたら、ぜったい恨むから……!」
「はーい」
跳ねるような笑い声が懐かしく、真衣は口元を緩ませた。写真の木枠を指でなぞると、薄い埃が一筋、指先に残った。
「東京に送ったほうがいいよね? どのあたり?」
「助かる! 親に見られるかもだし」
ここの住所をスラスラと暗唱する。地元はそう離れていないが、受け取りに行く余裕はなかった。──予定さえ空いていれば、ついでに顔も見に行けたのに。……いまは繁忙期だから仕方ない。年の瀬には帰れるだろうか。
「……それでさ。相談なんだけど」
カレンダーに気を取られ、声の沈みに遅れて気がついた。
「うん、どうした?」
「あたしさ、千春のぶんも預かってるの」
その名前に、視界がすっと狭くなった。真衣は硬直した指先を握りなおし、ゆっくりと息を吸った。
「先生がご両親に送るはずだったんだけど、音信不通でさ。外側の袋をあらためたら、アルミケースといっしょに手紙がひとつ、包まれてた。……宛先がね、真衣になってたの」
五つ、見えるもの。──マグ/ヘアゴム/綿棒/ヘアアイロン/化粧水。
「あんなことがあったからさ、先生も、真衣に送るべきか悩んでたみたい。それで、『あたしが真衣に聞いてみます』って──」
四つ、触れているもの。──カーペットの起毛/テーブルの縁/まとわりつく暖房/スマートフォンの硬質さ。
「……聞いてる?」
三つ、聞こえるもの。──彼女の声/エアコンの稼働音/自分の呼吸。
二つ、匂い。──埃っぽい匂い/ハンドクリーム。
一つ、味。──レモンティーの渋み。
──大丈夫。あれは昔の話。私がいるのは、いまこの現実。
そう言い聞かせ、真衣は指先の埃を拭った。
「聞いてるよー。それもいっしょに送ってよ。千春が、私に渡そうとしたものなんでしょ?」
電話の向こうで、小さく息を吸う音がする。
「……ねえ、真衣。あんなオカルト信じたくないけどさ、本人も言ってたじゃん。全部、あの空き家にふざけて入ったのが原因だって。真衣が背負おうとしなくたって──」
「わかってるよ、大丈夫。これまでだって、セルフケアして、明るく生きてきたんだから」
息を整える。そして、見えるものを五つ、触れているものを四つ……と、五感を順に数える。不安やフラッシュバックで意識が持っていかれそうなとき、呼吸と感覚に注意を向けることで、心を現実に引き戻す。真衣がクリニックで教わった手順は、たしかに効果があった。
「……前に言ってたやつでしょ? でも、それ一つでなんとかするっていうものじゃないと思うんだ。困ったときには誰かを頼らないと──」
「部屋にね、昔のものを置いてるの」
真衣は立ち上がり、写真をそっと棚に戻した。視界の隅に、かつての記憶が映る。
「少しずつ、平気になれるように。だから、大丈夫。もう、昔のことだから」
ミニテーブルの向こうに、絵里がいる。二人の間に置かれたビールが二つ、泡を失い、水滴を落として沈黙している。
「私ね、感謝してたんだ。ずっとそれを、伝えたかった」
「……絵里?」
「真衣ちゃん不器用だったから、会話の始まりはいつもこれだったよね」
気づけば、テーブルの端に透明な瓶があった。色とりどりのキャンディーが、ちょうど半分ほどまで詰まっている。
「……ごめん。絡んだのは私のほうだったのに。どう接したらいいか、わからなくなって」
「たくさん、悲しいことがあった。話せないようなことが、たくさん」
「やっぱり、そうだったんだ。全部、私の……」
「誰だって、人の苦しみを抱えていられるわけじゃない。でも、忘れられたくなかった」
「だから、『祟り』を選んだの? そんなことしなくたって、私は──」
言葉を続けられなかった。テーブルの中央に、写真立て。ガラスの奥には、真衣と絵里しか映っていない。はっとして顔を上げると、真衣はひとりになっていた。残ったのは、グラスの輪染みだけだった。
夢の光景が溶け、真っ暗な居室の輪郭が目に入る。ミニテーブルは相変わらず小物で散らかり、その脇には絵里から届いた段ボールと、封を切った手紙が重なっていた。
真衣は居室を出て廊下を辿り、リビングの明かりを点けた。ガラスのティーポットに茶葉を落とし、湯を注いでしばらく待つ。
──大丈夫。慣れてる。足裏を床に貼りつけ、重さだけを追う。
五つ、ティーポット/シンク/電子レンジ/ティースプーン/ガラス窓。
四つ、隙間風/スリッパの布地/寝ぐせで偏った髪の重み/湯気の温かさ。
三つ、冷蔵庫の微かな唸り/遠くを走る車輪の擦過音/自分の呼吸。
冷たいマグに紅茶をそのまま満たし、砂糖を入れて、口に含む。
紅茶の甘さが濃く、舌の上に膜のように張りつく。歯間へとろりと落ち、真衣のなかに入り込む。マグを支える指から、紙やインクの古い匂いが混じり、味が静かに別の輪郭を持ちはじめた。自分の口の中に、自分のものではないものが宿っていく。
真衣は反射的に喉を閉じ、吐き戻した。シンクの底に、泡立った赤茶が滑っていく。
水滴が飛び跳ねて、肌に二つ。付着したそれが透明な跡を描き、脱衣所の床に落ちる。温水は洗面ボウルのふちにミントの白泡を残し、音を立てて消えていった。
歯の裏側を何度も、何度も舌でなぞって、真衣はようやく歯ブラシを置いた。甘い香りも味も、いまや歯磨き粉のフレーバーに上書きされている。
まだ夜は浅かったが、もう一度まぶたを閉じることはできなかった。夢が再び形を持ち、絵里だと思い込んだ影に、名前が与えられてしまいそうで。
真衣はかかとを床に据え、息を吸った。四つ数えたら、二つ止め、八つで吐く。
四、二、八。
四、二、八。
五つ、見えるもの。──鏡に映る自分/ふちに白い水垢/毛先の開いた歯ブラシ/ハンドソープ/髪の毛が一本。
四つ、触れているもの。──スリッパの布地/スウェットのゴム/垂れた前髪/前腕の水滴。
三つ、聞こえるもの。──換気扇/遠くで車の通過音/呼吸。
香りと味は、ミントになった。平気。よし──
「……?」
シャワーを浴びようと浴室の明かりを点けた、そのときだった。
ふと湧いた違和感に、真衣の体は固まった。なにかおかしい。もう一度数えなおしてみる。五つ、四つ、三つ……。
「換気扇、昨日からつけっぱなし?」
壁のもう一つのスイッチに指を当て、押し込む。すぐに天井から、ブゥーンという聞き慣れた換気の音が漏れた。電源はきちんと切れていたのだ。不審に思い、もう一度スイッチを押すと、換気音はぴたりと止んだ。けれど、部屋のどこかで低い唸りが残っている。
「なに、何の音……」
耳を澄ます。あいまいな低音。しかしやがて、何かがはためくような音が混じっていく。音は厚みを増し、近づいてくる。鳥が羽ばたく音……というよりは、厚手の布が風を受ける音。真衣は、それに聞き覚えがあった。記憶の奥深く。──予鈴/中庭/T字のほうき/砂埃が舞って/曇り空/四階の踊り場?/制服。が、
迫る。
「──」
轟音に地面が揺れ、真衣は声を失った。ゆっくりと首を動かし、振り返る。浴室の半開きの扉。その下の隙間で、なにかが動いている。
それは、泡立つ液体だった。白い気泡が次々に膨らんでは、弾けていく。弾けていくたび、赤く、黒く、染まっていく。
不意にバッグの奥が震えた。残業明けの絵里は、点滅する青を渡り切ってから無造作にスマホを取り出した。
「どうした? 真衣」
「そっち、なんもない?」
「え、なにが……」
「しゃべって」
「急になに」
「しゃべってて! 他の音が聞こえるから!」
取り乱す真衣に、絵里はぎょっとして足を止めた。歩道の端に寄り、スマホを耳に押し当てる。そして、努めて落ち着いた声色に切り替えた。
「いま危ない? 警察と救急、どっち呼ぶ?」
「……いや、大丈夫」
「なら、何があったか説明して」
「……今度話す」
絵里は小さく息を吐いた。これまで、その「今度」が来たためしはなかったのだ。
「……じゃああたしも。今度会うときに話そうと思ってたんだけど」
真衣は後ろ手で脱衣所の扉を固く押さえ、浅い呼吸を刻む。ティーポット/シンク/電子レンジ/ティースプーン/ガラス窓。斜めにのぞくリビングに、いまのところ異常はない。
「あたし、そっちに異動になんのよ」
「えっ……東京に?」
「うん。本社のコーポレート。産休の人の代わりって話だけど、そのまま増員で残りそう」
真衣の胸に、温かいものが湧き出した。背中から力が抜け、後ろ手に押さえていた扉の圧がわずかに軽くなる。
「再来月の頭にはそっちだからさ、飯でもいこうか」
「……うん。だね」
うわずりそうな声を意識して落とす。呼吸は、すっかり落ち着いていた。さきほど襲われた異常な音も、もう聞こえていない。真衣はゆっくりと扉から離れ、リビングに歩み出ようとして──足を止めた。
「なんか、部屋が暗い気がする」
「……明かりの設定とかじゃない?」
天井を見上げたが、照明は十分明るく感じられた。もう一度、リビングを視線でなぞってみる。
ティーポット/シンク/電子レンジ/ティースプーン/ガラス窓。
どこにも、おかしなものは見当たらない。しかし、真衣の目にはそれらすべてが妙に暗く見えた。
「違う」
しかも、その暗さは刻一刻と移ろっている。特に電子レンジと窓は、下から上へ、ゆっくり黒がせり上がってくる。
「絵里」
そこでようやく、真衣はそれらの共通点に気がついた。暗くなっているのは物体そのものではない。
「なに? どうした?」
──反射だ。鏡面の部分だけが、下から塗りつぶされていく。
「なにかが──」
──起き上がっている。
身体が凍る。電子レンジの扉はすでに上まで真っ黒で、いまや外縁から明るさを取り戻していた。
「真衣! どうした!」
つまり──真衣と電子レンジのあいだの『それ』は、真衣の方へ近づいてきている。
「絵里、………絵里」
彼女に助けを求めようとするが、心臓の拍に合わせて喉が跳ね、言葉が割れる。ビデオ通話のボタンへ指を伸ばそうと、スマホを正面に掲げたそのとき──液晶に、引きつった自分の上半身と、その肩口に黒い人影が映っていた。
『彼女』──千春は、欠席がちで控えめな人だった。そんな彼女だって、他のクラスメイトと同じようにふざけるのだということを知っていたのは、たぶん私だけだっただろう。キャンディーひとつから始まった関係は、少しずつ温まっていき、やがて絵里を巻き込んで、千春の趣味だという廃墟巡りについていったこともあった。
そのあたりからだ。彼女に立て続けに不幸が降りかかったのは。私だって、詳しい事情は知らない。一番身近にいたはずの私が知っているのは、彼女の家族がもういない、ということぐらいだ。私だけを頼りにしていた彼女は、そのことを私がどこか重荷に感じていたことに、きっと気づいていたのだと思う。
真衣は、暗い寝室の奥で膝を抱えていた。
廊下と寝室を隔てる扉は閉じたままなのに、開閉するような音だけが耳に届く。棚から写真立てがひとりでに落ち、鈍い音を立てる。耐えきれず、両耳を手のひらで覆う。
くぐもった世界に、体内をめぐる音と、深く吸って吐く息の音だけが満ちていく。
四つ息を吸い、二つ止め、八つで吐く。
──四、二、八。
扉の前に、黒い影が立っている。ミニテーブルの小物が、次々と床へ落ちていく。
──四、二、八。
黒い影が、一歩近づく。本が数冊と、アルバムがまとめて滑り落ちる。風が、肌を撫でた。
──四、二、八。
黒い影が、また一歩近づく。風圧が強くなる。
──四、二、八。
黒い影が、テーブルのそばまでにじり寄る。耳をふさいでいても、絶え間ない落下音と風切り音が聞こえてくる。肌を叩く風だけは、どうしても遮れない。
──四、二、八。
息を吐ききる前に、真衣は耐えきれず目をぎゅっとつむった。
──四、二、八。
──四、二、八。
──四、二、八。
──四、二、八。
──四、二、八。
──四、
口の中で、ギャリッと硬いものを噛み砕く音が響いた。真衣は反射的にそれを吐き出し、目を開け、耳から手を離してしまった。
視界の中央で、色とりどりのキャンディーがばらばらに砕け散っている。
そのすぐそばに、真っ黒な両足がすっと伸びていた。
──ああ、そういうことか。
これ、私の影だ。
真衣は再び目を閉じた。自分の身体が落下していく轟音と圧力が、凄まじい勢いで押し寄せる。
「こんなに、怖い思いしてたんだ」
そして、真衣は全身に途方もない衝撃を感じながら、意識を手放した。
【補記】情報提供者である小長谷絵里(仮名)氏のコメント
──以上が小長谷さんのご友人が体験した出来事、という理解でよろしいですね。では、確認ですが、ご友人二人と訪れた廃墟というのはこちらでお間違いないですか。(資料を見て小さくうなずく)……ありがとうございます。最後に、この話をご本人から聞いた経緯を教えてください。
「電話で取り乱していた彼女が心配で、電車とタクシーで、すぐに彼女の部屋を訪ねたんです。そのときに聞いたのが、いまの話で……」
──当時のご本人の様子はいかがでした?
「それが……(沈黙)彼女、特に怖がる様子もなく、ずっと落ち着いた表情をしていたんです。とても、数時間前にそんな怖い思いをしたとは思えないほど。あたし、おかしいと思って、つい……」
──つい?
「黒い影を見たという寝室を、こっそり覗いてみたんです。彼女がお手洗いに行っている隙に。……そしたら、話とは全然違ったんです。写真立ても、アルバムも、部活のレコードも……ぜんぶ、見つかりませんでした。あの手紙もです。それどころか、部屋にはベッドと最低限の家具しかなくて、彼女の思い出の品なんか、ひとつも存在しなかったんです。……この話は、ただの作り話だったんでしょうか」