Asemic Note | 欠性のα

 このようなかたちで彼の像を残すことになったのは、やはり残念でならない。「■氏(便宜上、以下 A 氏)」をめぐる証言収集を重ねてきたが、得られた語りはいずれも、当初想定した到達点からはむしろ遠のくばかりであった。


 僕が求めていたのは、ただ彼と再び出会うための手がかりにすぎない。

 ところが、情報を募り、その所在を探ろうとするほどに、僕は自分がいったい何と出会おうとしているのか、その輪郭をかえって見失いつつある。

「コバセンも来てたんでしょ? みんなとお酒、飲んでみたかったな」
 学年色のリボンを巻いたアルバム。陸上記録のプレート。棚の一角を横目に、写真立てを手にして戻る。ミニテーブルの上の散らかりを奥へ寄せると、ピンクの天板にヘアオイルとマグカップの輪染みが二つ、浮いていた。
「成人式のときはコロナで集まれなかったもんね。でさ、小林先生、ようやくタイムカプセル配ってくれたのよ」
「わ、あったわそんなの! ハタチの自分に宛てたやつでしょ? 私、めっちゃ恥ずいもん入れた気がする」
 ウェットティッシュで輪染みを拭き取り、写真立てをそっと据える。ガラス越しに、昔の真衣と絵里。肩が触れ合い、二人の笑いじわが同じ角度で寄っている。
「確かめてみよっか? 持ってくるからちょい待ち」
「……へ? なんで絵里のとこにあんの?」
「先生が『送ってやれ』って。うわこの缶、懐かし……真衣の部屋にあったやつじゃん!」
 スピーカー越しの声が遠のく。代わりに、コツコツと缶を小突く音が響いた。
「開けたら、ぜったい恨むから……!」
「はーい」
 跳ねるような笑い声が懐かしく、真衣は口元を緩ませた。写真の木枠を指でなぞると、薄い埃が一筋、指先に残った。
「東京に送ったほうがいいよね? どのあたり?」
「助かる! 親に見られるかもだし」
 ここの住所をスラスラと暗唱する。地元はそう離れていないが、受け取りに行く余裕はなかった。──予定さえ空いていれば、ついでに顔も見に行けたのに。……いまは繁忙期だから仕方ない。年の瀬には帰れるだろうか。

「……それでさ。相談なんだけど」
 カレンダーに気を取られ、声の沈みに遅れて気がついた。
「うん、どうした?」
「あたしさ、千春のぶんも預かってるの」
 その名前に、視界がすっと狭くなった。真衣は硬直した指先を握りなおし、ゆっくりと息を吸った。
「先生がご両親に送るはずだったんだけど、音信不通でさ。外側の袋をあらためたら、アルミケースといっしょに手紙がひとつ、包まれてた。……宛先がね、真衣になってたの」
 五つ、見えるもの。──マグ/ヘアゴム/綿棒/ヘアアイロン/化粧水。
「あんなことがあったからさ、先生も、真衣に送るべきか悩んでたみたい。それで、『あたしが真衣に聞いてみます』って──」
 四つ、触れているもの。──カーペットの起毛/テーブルの縁/まとわりつく暖房/スマートフォンの硬質さ。
「……聞いてる?」
 三つ、聞こえるもの。──彼女の声/エアコンの稼働音/自分の呼吸。
 二つ、匂い。──埃っぽい匂い/ハンドクリーム。
 一つ、味。──レモンティーの渋み。
 ──大丈夫。あれは昔の話。私がいるのは、いまこの現実。
 そう言い聞かせ、真衣は指先の埃を拭った。
「聞いてるよー。それもいっしょに送ってよ。千春が、私に渡そうとしたものなんでしょ?」
 電話の向こうで、小さく息を吸う音がする。
「……ねえ、真衣。あんなオカルト信じたくないけどさ、本人も言ってたじゃん。全部、あの空き家にふざけて入ったのが原因だって。真衣が背負おうとしなくたって──」
「わかってるよ、大丈夫。これまでだって、セルフケアして、明るく生きてきたんだから」
 息を整える。そして、見えるものを五つ、触れているものを四つ……と、五感を順に数える。不安やフラッシュバックで意識が持っていかれそうなとき、呼吸と感覚に注意を向けることで、心を現実に引き戻す。真衣がクリニックで教わった手順は、たしかに効果があった。
「……前に言ってたやつでしょ? でも、それ一つでなんとかするっていうものじゃないと思うんだ。困ったときには誰かを頼らないと──」
「部屋にね、昔のものを置いてるの」
 真衣は立ち上がり、写真をそっと棚に戻した。視界の隅に、かつての記憶が映る。
「少しずつ、平気になれるように。だから、大丈夫。もう、昔のことだから」

 ミニテーブルの向こうに、絵里がいる。二人の間に置かれたビールが二つ、泡を失い、水滴を落として沈黙している。
「私ね、感謝してたんだ。ずっとそれを、伝えたかった」
「……絵里?」
「真衣ちゃん不器用だったから、会話の始まりはいつもこれだったよね」
 気づけば、テーブルの端に透明な瓶があった。色とりどりのキャンディーが、ちょうど半分ほどまで詰まっている。
「……ごめん。絡んだのは私のほうだったのに。どう接したらいいか、わからなくなって」
「たくさん、悲しいことがあった。話せないようなことが、たくさん」
「やっぱり、そうだったんだ。全部、私の……」
「誰だって、人の苦しみを抱えていられるわけじゃない。でも、忘れられたくなかった」
「だから、『祟り』を選んだの? そんなことしなくたって、私は──」
 言葉を続けられなかった。テーブルの中央に、写真立て。ガラスの奥には、真衣と絵里しか映っていない。はっとして顔を上げると、真衣はひとりになっていた。残ったのは、グラスの輪染みだけだった。

 夢の光景が溶け、真っ暗な居室の輪郭が目に入る。ミニテーブルは相変わらず小物で散らかり、その脇には絵里から届いた段ボールと、封を切った手紙が重なっていた。
 真衣は居室を出て廊下を辿り、リビングの明かりを点けた。ガラスのティーポットに茶葉を落とし、湯を注いでしばらく待つ。
 ──大丈夫。慣れてる。足裏を床に貼りつけ、重さだけを追う。
 五つ、ティーポット/シンク/電子レンジ/ティースプーン/ガラス窓。
 四つ、隙間風/スリッパの布地/寝ぐせで偏った髪の重み/湯気の温かさ。
 三つ、冷蔵庫の微かな唸り/遠くを走る車輪の擦過音/自分の呼吸。
 冷たいマグに紅茶をそのまま満たし、砂糖を入れて、口に含む。
 紅茶の甘さが濃く、舌の上に膜のように張りつく。歯間へとろりと落ち、真衣のなかに入り込む。マグを支える指から、紙やインクの古い匂いが混じり、味が静かに別の輪郭を持ちはじめた。自分の口の中に、自分のものではないものが宿っていく。
 真衣は反射的に喉を閉じ、吐き戻した。シンクの底に、泡立った赤茶が滑っていく。

 水滴が飛び跳ねて、肌に二つ。付着したそれが透明な跡を描き、脱衣所の床に落ちる。温水は洗面ボウルのふちにミントの白泡を残し、音を立てて消えていった。
 歯の裏側を何度も、何度も舌でなぞって、真衣はようやく歯ブラシを置いた。甘い香りも味も、いまや歯磨き粉のフレーバーに上書きされている。
 まだ夜は浅かったが、もう一度まぶたを閉じることはできなかった。夢が再び形を持ち、絵里だと思い込んだ影に、名前が与えられてしまいそうで。

 真衣はかかとを床に据え、息を吸った。四つ数えたら、二つ止め、八つで吐く。
 四、二、八。
 四、二、八。
 五つ、見えるもの。──鏡に映る自分/ふちに白い水垢/毛先の開いた歯ブラシ/ハンドソープ/髪の毛が一本。
 四つ、触れているもの。──スリッパの布地/スウェットのゴム/垂れた前髪/前腕の水滴。
 三つ、聞こえるもの。──換気扇/遠くで車の通過音/呼吸。
 香りと味は、ミントになった。平気。よし──
「……?」
 シャワーを浴びようと浴室の明かりを点けた、そのときだった。
 ふと湧いた違和感に、真衣の体は固まった。なにかおかしい。もう一度数えなおしてみる。五つ、四つ、三つ……。

「換気扇、昨日からつけっぱなし?」
 壁のもう一つのスイッチに指を当て、押し込む。すぐに天井から、ブゥーンという聞き慣れた換気の音が漏れた。電源はきちんと切れていたのだ。不審に思い、もう一度スイッチを押すと、換気音はぴたりと止んだ。けれど、部屋のどこかで低い唸りが残っている。
「なに、何の音……」
 耳を澄ます。あいまいな低音。しかしやがて、何かがはためくような音が混じっていく。音は厚みを増し、近づいてくる。鳥が羽ばたく音……というよりは、厚手の布が風を受ける音。真衣は、それに聞き覚えがあった。記憶の奥深く。──予鈴/中庭/T字のほうき/砂埃が舞って/曇り空/四階の踊り場?/制服。が、

 迫る。
「──」
 轟音に地面が揺れ、真衣は声を失った。ゆっくりと首を動かし、振り返る。浴室の半開きの扉。その下の隙間で、なにかが動いている。
 それは、泡立つ液体だった。白い気泡が次々に膨らんでは、弾けていく。弾けていくたび、赤く、黒く、染まっていく。

 不意にバッグの奥が震えた。残業明けの絵里は、点滅する青を渡り切ってから無造作にスマホを取り出した。
「どうした? 真衣」
「そっち、なんもない?」
「え、なにが……」
「しゃべって」
「急になに」
「しゃべってて! 他の音が聞こえるから!」
 取り乱す真衣に、絵里はぎょっとして足を止めた。歩道の端に寄り、スマホを耳に押し当てる。そして、努めて落ち着いた声色に切り替えた。
「いま危ない? 警察と救急、どっち呼ぶ?」
「……いや、大丈夫」
「なら、何があったか説明して」
「……今度話す」
 絵里は小さく息を吐いた。これまで、その「今度」が来たためしはなかったのだ。
「……じゃああたしも。今度会うときに話そうと思ってたんだけど」
 真衣は後ろ手で脱衣所の扉を固く押さえ、浅い呼吸を刻む。ティーポット/シンク/電子レンジ/ティースプーン/ガラス窓。斜めにのぞくリビングに、いまのところ異常はない。
「あたし、そっちに異動になんのよ」
「えっ……東京に?」
「うん。本社のコーポレート。産休の人の代わりって話だけど、そのまま増員で残りそう」
 真衣の胸に、温かいものが湧き出した。背中から力が抜け、後ろ手に押さえていた扉の圧がわずかに軽くなる。
「再来月の頭にはそっちだからさ、飯でもいこうか」
「……うん。だね」
 うわずりそうな声を意識して落とす。呼吸は、すっかり落ち着いていた。さきほど襲われた異常な音も、もう聞こえていない。真衣はゆっくりと扉から離れ、リビングに歩み出ようとして──足を止めた。

「なんか、部屋が暗い気がする」
「……明かりの設定とかじゃない?」
 天井を見上げたが、照明は十分明るく感じられた。もう一度、リビングを視線でなぞってみる。
 ティーポット/シンク/電子レンジ/ティースプーン/ガラス窓。
 どこにも、おかしなものは見当たらない。しかし、真衣の目にはそれらすべてが妙に暗く見えた。
「違う」
 しかも、その暗さは刻一刻と移ろっている。特に電子レンジと窓は、下から上へ、ゆっくり黒がせり上がってくる。
「絵里」
 そこでようやく、真衣はそれらの共通点に気がついた。暗くなっているのは物体そのものではない。
「なに? どうした?」
 ──反射だ。鏡面の部分だけが、下から塗りつぶされていく。
「なにかが──」
 ──起き上がっている。
 身体が凍る。電子レンジの扉はすでに上まで真っ黒で、いまや外縁から明るさを取り戻していた。
「真衣! どうした!」
 つまり──真衣と電子レンジのあいだの『それ』は、真衣の方へ近づいてきている。
「絵里、………絵里」
 彼女に助けを求めようとするが、心臓の拍に合わせて喉が跳ね、言葉が割れる。ビデオ通話のボタンへ指を伸ばそうと、スマホを正面に掲げたそのとき──液晶に、引きつった自分の上半身と、その肩口に黒い人影が映っていた。

 『彼女』──千春は、欠席がちで控えめな人だった。そんな彼女だって、他のクラスメイトと同じようにふざけるのだということを知っていたのは、たぶん私だけだっただろう。キャンディーひとつから始まった関係は、少しずつ温まっていき、やがて絵里を巻き込んで、千春の趣味だという廃墟巡りについていったこともあった。
 そのあたりからだ。彼女に立て続けに不幸が降りかかったのは。私だって、詳しい事情は知らない。一番身近にいたはずの私が知っているのは、彼女の家族がもういない、ということぐらいだ。私だけを頼りにしていた彼女は、そのことを私がどこか重荷に感じていたことに、きっと気づいていたのだと思う。

 真衣は、暗い寝室の奥で膝を抱えていた。
 廊下と寝室を隔てる扉は閉じたままなのに、開閉するような音だけが耳に届く。棚から写真立てがひとりでに落ち、鈍い音を立てる。耐えきれず、両耳を手のひらで覆う。
 くぐもった世界に、体内をめぐる音と、深く吸って吐く息の音だけが満ちていく。
 四つ息を吸い、二つ止め、八つで吐く。
 ──四、二、八。
 扉の前に、黒い影が立っている。ミニテーブルの小物が、次々と床へ落ちていく。
 ──四、二、八。
 黒い影が、一歩近づく。本が数冊と、アルバムがまとめて滑り落ちる。風が、肌を撫でた。
 ──四、二、八。
 黒い影が、また一歩近づく。風圧が強くなる。
 ──四、二、八。
 黒い影が、テーブルのそばまでにじり寄る。耳をふさいでいても、絶え間ない落下音と風切り音が聞こえてくる。肌を叩く風だけは、どうしても遮れない。
 ──四、二、八。
 息を吐ききる前に、真衣は耐えきれず目をぎゅっとつむった。
 ──四、二、八。
 ──四、二、八。
 ──四、二、八。
 ──四、二、八。
 ──四、二、八。
 ──四、
 口の中で、ギャリッと硬いものを噛み砕く音が響いた。真衣は反射的にそれを吐き出し、目を開け、耳から手を離してしまった。

 視界の中央で、色とりどりのキャンディーがばらばらに砕け散っている。
 そのすぐそばに、真っ黒な両足がすっと伸びていた。
 ──ああ、そういうことか。
 これ、私の影だ。
 真衣は再び目を閉じた。自分の身体が落下していく轟音と圧力が、凄まじい勢いで押し寄せる。
「こんなに、怖い思いしてたんだ」
 そして、真衣は全身に途方もない衝撃を感じながら、意識を手放した。

【補記】情報提供者である小長谷絵里(仮名)氏のコメント

──以上が小長谷さんのご友人が体験した出来事、という理解でよろしいですね。では、確認ですが、ご友人二人と訪れた廃墟というのはこちらでお間違いないですか。(資料を見て小さくうなずく)……ありがとうございます。最後に、この話をご本人から聞いた経緯を教えてください。

「電話で取り乱していた彼女が心配で、電車とタクシーで、すぐに彼女の部屋を訪ねたんです。そのときに聞いたのが、いまの話で……」

──当時のご本人の様子はいかがでした?

「それが……(沈黙)彼女、特に怖がる様子もなく、ずっと落ち着いた表情をしていたんです。とても、数時間前にそんな怖い思いをしたとは思えないほど。あたし、おかしいと思って、つい……」

──つい?

「黒い影を見たという寝室を、こっそり覗いてみたんです。彼女がお手洗いに行っている隙に。……そしたら、話とは全然違ったんです。写真立ても、アルバムも、部活のレコードも……ぜんぶ、見つかりませんでした。あの手紙もです。それどころか、部屋にはベッドと最低限の家具しかなくて、彼女の思い出の品なんか、ひとつも存在しなかったんです。……この話は、ただの作り話だったんでしょうか」

ハリセンとミートスパゲティ | 私じゃない日記

 日曜の昼下がり。アパートに原付を止め、配達用の大きなバッグを背負い直す。中のお弁当が崩れないよう、慎重に。目指すのは、お馴染みの『302』の表札。
 こういう仕事をしていると、『相手の立場になる』という言葉の重さを、いやでも考えさせられる。玄関先を通るベルトコンベアのようにしか見られないこともあれば、露骨な軽蔑や悪意を平気で向けられることもある。
 もちろん、こちらをちゃんと人間扱いする常連もいるのだが──見慣れた外階段のタイルに気が緩んだのだろう。そんなふうに考えごとをしていたせいで、踊り場で話し込んでいる二人に、ぶつかる直前まで気がつかなかった。
「あら、アンタはよう配達来てはる──」
 声をかけてきたのは、五十代くらいの女性だった。スウェットにサンダルというラフな格好を見るに、このアパートの住人なのだろう。ただ、空気は緊張を帯びていた。彼女のそばでは、初老の男性が言葉を探すように黙り込んでいる。
「どうも。……このフロアの方に、ミートスパゲティをお届けに」
「302号室やろ? ほら見てみ! ごはん頼んでるってことは、やっぱ居留守つこてたってことやんか!」
 状況を掴みかねている私に、初老の男性が口を開いた。
「きのうの夜中にな、ギターの音が響いとったみたいなんですよ。それでな、おそらくお隣の302号室の方ちゃうかってことで、ちょっとお話うかがおうとしてたとこなんですわ」
 深夜二時、アコースティックギターであいみょんをかき鳴らしつづけた302号室の住人に堪忍袋の緒が切れ、彼女は大家を伴って抗議に来た──要するに、そういう経緯らしかった。
「今日はこのへんでな、いったん引きあげて出直そかな思てましたさかい──」
「なに言うてんの! この配達の兄ちゃんの陰んとこで待ちかまえとったら、つかまえられるやんか!」
 巨大なトラが中央にプリントされたスウェット。手にはハリセン。およそ現実世界の住人とは思えない格好だが、ここは大阪なのだから仕方がない。よく見ると、そのハリセンはそよ風と彼女の貧乏ゆすりに揺れながらも、妙に剛性を感じさせた。
「わかる? アルミ板仕込んでんのやで」
 そう言って、彼女は素振りを始めた。風圧で、大家さんの白髪がなびく。想像してほしい。息をひそめて張り込みをやり過ごし、昼飯の合図にようやく安心してドアを開けた瞬間、そこにはおばちゃんが立っている。胸のトラと見分けがつかぬ怒気を顔にたたえ、ハリセンを振り上げて。
「まあまあ、奥さん。302号室の人もな、ついこのあいだ東京から越してきたとこやし──」
「ウチらは静かにしとくさかい、あんたピンポン押してきてや!」
 大家さんの制止もむなしく、おばちゃんは私にインターホンを押せと迫ってくる。しかたなく呼び鈴に指を伸ばすが、何度押しても反応はなかった。
「……出ませんね」
「ちょっと待っとったら出てくるわ」
 このまま居座る気らしい。どうにかして、彼女から情けのひとつでも引き出せないものか。
「彼にも事情があるのでしょう。急患だらけの土曜の救急で働いていれば、ストレスも溜まります」
「そんなん、みんな一緒やんか」
人手不足でナースステーションは阿鼻叫喚。受付はあくびばかりで手を動かさないし、患者さんは待ちきれなくて『まだですか』って何度も聞きに来る。そんな感じだと聞いてます」
「……それとギターは関係あらへんやろ。この部屋の人が非常識なだけやんか」
「そう責めないであげてください。人は誰しも、欠落を抱えて生きています。生まれついた条件や積み重ねてきた環境──」
「そんなん言うたかて、悪いもんは悪いんやで」
「ええ、もちろん。……でも、そのハリセンでぶたれるいわれもないでしょう。彼には他の趣味を勧めておきますから、今日のところは……」
 おばちゃんは不満そうな顔を崩さない。けれど、さすがに大家さんをこのままひき留めるのは気が引けたのだろう。「おおきに」と言い残し、彼女はしぶしぶ踵を返した。
「ほなついでやけどな、ゴミ捨て場のほうもな──」
 廊下の向こうで、おばちゃんが次の不満をぶつけはじめる。大家さんが解放される気配は、まだなさそうだ。
 結局のところ、どんな行為にもそれなりの理由はあるのだろう。人間の意志なんて本当はないと言っているように聞こえるかもしれないが、誰かを責め立てるよりはずっとましだ。他者の心は、相手を自分のことのように引き受けるときに、初めて現れるのだから。

 階段を降りていく二人の背中を見送ると、私はそっと302号室のドアを開けた。医療事務に加え、休日はこうして配達の副業。さすがに疲れていたのだろう。ふだんならイヤホンと練習用のエレキで指を慣らすところを、昨晩はうっかりアコギを鳴らしてしまったらしい。おばちゃんに、自分の正体を気づかれずに済んだのは幸いだった。
 私は息をつきながら、すっかり冷えたミートスパゲティを口に運んだ。

合わせ目 | 私じゃない日記

 頭上を舞う戦闘機が、散らされた手紙のようにほどけていく。何十年も東京を見下ろしてきた電波塔が、悲鳴とともに倒れていく。客人の出迎えはすべて失敗に終わった。人々に仰がれてきた価値の象徴が、あっけなく払い落とされていく光景を前に、私はふと、自分の過去を重ねていた。

 あまり大きな声では言えないが、私は十代の半ばまで、いわゆるブンドド遊びをしていた。セリフや効果音を空想で補いつつおもちゃを動かす、あの遊びだ。
 プラモデルのロボットをガチャガチャと動かしながら、私は部屋の隅でひとり、宇宙を組み立てていた。指先に伝わる硬質な感触の奥で、あるときは核融合炉の熱が脈打ち、あるときはガスタービンの唸りが響き、またあるときは、地球外生命体が遺した未知の構造体が呼吸していた。プラスチックの機体の内部には、たしかに無尽蔵のエネルギーがあった。私はそれを、手のひらで感じていた。
 たぶん、自分であって自分でない、誰かが欲しかったのだと思う。その頼もしいロボットは、現実世界のどうしようもなさ──母親に甘えられず、父親に頼れなかった少年時代の孤独に寄り添ってくれていた。だからだろうか。少なくとも、あのころは退屈で死にたいと思うことはあまりなかった。苦しくて死にたくなることは、ままあったけれど。
 しかし、その遊びもいつの間にかやめてしまった。自分の幼さに恥ずかしさを感じていたから──というのも事実だが、本当の理由は別にあった。プラスチックの合わせ目。かつては見えなかったそれが、大人に近づくにつれ、自然と目に留まるようになったのだ。継ぎ目を爪でなぞると、かすかな段差が乾いた音を立てる。カリッ、……カリッ。その音を聞くたび、私のなかの宇宙が少しずつしぼんだ。頼もしいロボットは、ただの素材へと──粗末なプラスチックの集合へと、戻っていった。

「ぜんぜん、来てくれないっすね」
「──? なにか言いました?」
 高価な戦闘機がまたひとつ、ひらひらと舞い落ちた。部屋に明滅が走る。巨大なモニターが、何千回と流してきたコマーシャルを最後に沈黙する。
 耳をそばだてると、彼女は肩をすくめ、弱音を繰り返した。先ほどから仲間がマイクに向かって呼びかけを続けてくれているが、今のところ、誰も駆けつけてはくれない。
「……もう少し、我慢しようか」
 私はもう一人の背中に、息を押し殺すように声を掛けた。地面に横たわる彼は、苦悶に咽びつつ、震える首を縦に振った。足もとには、痛々しく砕けたブロックやガラクタが散らばっている。私たちは途方に暮れていた。肉体の大きさも、過ごしてきた世界もまるで違う暴れん坊に、どう向き合えというのだろう。いつまで彼は、苦しみに臥していなければならないのだろう。
 彼に掛ける次の言葉を探していたそのとき。ふと、その視線の先──マイクと通信機器のそばに、あるものが転がっていることに気がついた。
「……興味があるのか?」
 シーグラス。それは、色のついた小石とも、光を失った宝石とも見えた。私はそれを彼女から受け取り、そっと彼の手のひらに置いた。
「変わってるな。今日君に見つからなかったら、裏の駐車場にでも投げ捨てられていただろう」
 彼はそれを見つめ、何かを探すように瞬きをした。沈黙が、ゆっくりと場を満たしていく。戦闘機も電波塔もモニターの明滅もブロックも──彼の視界から、遠ざかる。そして、なんでもない小石だけが、世界の中心に残った。
 その光景は、少年時代のあの音を想起させた。私を現実世界へと引き戻す、乾いた音。しかし、幼いころの私がそれに気が付かなかったというのは、間違いだったのかもしれない。

沈黙を裂いたのは、控えめなノックだった。
「来た! 来たよ!」
 彼はばね仕掛けのように跳ね起き、扉の向こうへ駆けていく。そこには、アパレルショップの紙袋を腕に提げ、肩で息をする女性が立っていた。度重なるアナウンスがようやく功を奏したようだ。何度も頭を下げるその背を見送ると、案内係の同僚は先ほど消した壁のモニターに再び電源を入れ、子ども向けのアニメから民放へと切り替えた。
「お母さん見つかってよかったっすね。努力の甲斐は、あんまり無かったですけど」
「んー」
 どうせ、この耳は半分も聞き取れない。私は生返事をして杖を突き、ベンチクッションに散ったブロックと、館内ガイドや商品カタログから切り抜いた玩具や観光名所の写真を掻き集めた。絵本、タブレット、音の出る人形――思いつく限りを差し出したが、効いたのは一片の石だけだった。同僚が一階ロビーの工芸体験で受け取ってきた、淡い青のシーグラス。まったく、最近の子どもの嗜好はわからない。半世紀以上も離れていると、まるで宇宙人を相手にしているような気分になる。
 少年はシーグラスを握ったまま安堵の笑みをこぼし、振り返りもせず母の手に引かれていった。小さな拳の中でその石は鈍く屈折し、いまも彼の視線を独り占めにしているのだろう。
 この世界は退屈で、寄る辺ない。ショッピングモールのカタログがどれほど眩しくても、母を見失った瞬間、それは紙くずに変わる。
 『頼もしい味方』が姿を現すのは、そんな孤独の井戸の底だ。丸み、擦り傷、光の屈折、ここに至るまでの物語――どれも凡庸に過ぎない、ありふれたただの石。にもかかわらず、彼のまなざしは、その石のかけがえのなさを──自分の分身を、目にしていたのだと思う。
 幼いころ、私は合わせ目が見えていなかったわけではないのかもしれない。見えていても、きっとどうでもよかったのだ。少年が石の素っ気なさに頓着しないのと同じように。私は、この手のひらにあるものが、ただそこにいてくれている、ということに陶酔していた。自分の求めていた価値が、現実世界のつまらなさと無関係であることを、ロボットが教えてくれているような気がして。

ボタンの感触 | 私じゃない日記

 排気音とともに、数名の女子学生が乗り込んできた。地域に新しい校舎が建ってから、この路線では制服を目にすることも多い。私は視線を向けぬよう俯き、そっと身を縮めた。胸元でネクタイがぐにゃりと歪む。彼女たちは小さな笑い声をこぼしながら私のすぐそばを通り過ぎ、バスの後方へと移動していく。混み合っているにもかかわらず、私の隣はぽつりと空いたまま、誰も腰を掛けようとはしなかった。彼女たちの内心で、「この席には座るまい」と判断が下されたということだ。行儀よく縮こまっている私の姿が、どこか滑稽に映ったのかもしれない。
 数日前からつづく自意識の膨張に自覚的ではあったものの、私はその手綱を握ることができずにいた。誰かが目の前を通過するたび、うっすらとした劣等感に襲われる。移動のあいだずっと、神経質のなすがまま、みじめな気分を味わっていた。
 ため息とともに降車口を出ると、歩道の熱気がまとわりついた。同じ停留所で降りた彼女たちはおしゃべりを続けている。背後から届く声の断片を、聞くともなく聞いてしまう。「ドライブに誘ってきた男がドアを開けてくれなかった」とか、「料金を割り勘にされた」とか。そんな話題が耳に届くたび、胸の奥が重くなった。
 もとは誰かの誠実だったものが、いまでは作法だけが歩き出し、当然のように消費されるマナーになっている。欠ければ軽視と受け取られかねず、気遣いはため息を飲み込みながら差し出されるものとなる。思いやりはもはや取引の一形態でしかなく、誠実さを信じている夢想家だけが、虚構の善意にまんまとほだされ、弄ばれる。
 結局のところ──異性に信頼を寄せること自体、幼稚なのだろう。

 やがて交差点にさしかかったとき、私は思わず息を呑んだ。右手のすぐそばに、信号の押しボタンがあったからだ。いつもの癖で歩道の内側を歩いていた私は、自然とボタンの目の前で足を止めていた。つまり、後方の彼女たちを代表して押すのは、私の役割ということになる。
 赤いボタンの中央は色が薄れ、浅いひっかき傷がいくつも走っている。手を伸ばす前だというのに、触れたときのざらついた感触が何度も頭を擦りつける。
 ──なんて、やるせないんだろう
 胸の奥から、陰鬱と怒りが込み上げた。つまり私は──空っぽの気遣いで信頼を築こうとしながら、平然と私を通り過ぎるほうの性のために、この指を伸ばさなくてはならなかったということだ。
 私は咄嗟の思いつきで鞄のなかをまさぐると、家のカギを探しあてた。その鋭い先端を、指の代わりにしてボタンを押そうとしたのだ──が、手が滑った。鍵は手のひらからすり抜け、冷たい音を立ててアスファルトに弾んだ。
「え、なにしてんの……」
 背後から、彼女たちの視線が刺さった。ボタンの前で不審な行動をする私を中心に、空気が沈んでいく。
 ──なんで
 なんで、あんなふうに突き放せるのだろう。
 何度も、一緒にこの道を二人で歩いたはずなのに。大切にされていると信じていたのに。
 私はついに堪えきれず、拾い上げた鍵を固く握りしめたまま、後ろにいた彼女へと歩み寄った。

「……なにしてんのってば、朱里」
 彼女──倉田はそう繰り返し、きょとんとした表情を浮かべた。第一ボタンを外し、制服のネクタイをゆるく締めている。その後ろでは他のクラスメイトが、挨拶代わりに私へ小さく手を振っていた。
「……倉田、私のこと避けてない?」
「へ? ……いやいや、あんた朝は彼氏と二人で来るから気ぃ遣って……え、どうした」
 目を見開いてあわてる倉田の姿が、かすかに滲み、頬を熱いものが伝った。
「……倉田が、『あいつは真面目で私好み』だって言ったから……もう男は信じない」
 数日前まで一緒に登校していた彼は、当然のように車道側を歩く、少し大仰で律儀な人だった。だから右手にある横断ボタンを押すのは、いつも私の役目だったのだ。けれどその彼は、誠実どころか、一言も残さずに私から離れていった。ボタンのざらついた感触を思い出すたび、あの憎たらしい顔が浮かび、空転気味の気遣いを心地よく感じていた自分がみじめに思えてくる。
「あー、あいつダメだったか……ごめんなあ」
 倉田は困ったように笑みを浮かべ、私の背を軽く叩いた。
「ひとりだと思い出しちゃうよな。明日はいっしょに来よ」
 信号は青。校門はすぐそこだった。