ハリセンとミートスパゲティ | 私じゃない日記

 日曜の昼下がり。アパートに原付を止め、配達用の大きなバッグを背負い直す。中のお弁当が崩れないよう、慎重に。目指すのは、お馴染みの『302』の表札。
 こういう仕事をしていると、『相手の立場になる』という言葉の重さを、いやでも考えさせられる。玄関先を通るベルトコンベアのようにしか見られないこともあれば、露骨な軽蔑や悪意を平気で向けられることもある。
 もちろん、こちらをちゃんと人間扱いする常連もいるのだが──見慣れた外階段のタイルに気が緩んだのだろう。そんなふうに考えごとをしていたせいで、踊り場で話し込んでいる二人に、ぶつかる直前まで気がつかなかった。
「あら、アンタはよう配達来てはる──」
 声をかけてきたのは、五十代くらいの女性だった。スウェットにサンダルというラフな格好を見るに、このアパートの住人なのだろう。ただ、空気は緊張を帯びていた。彼女のそばでは、初老の男性が言葉を探すように黙り込んでいる。
「どうも。……このフロアの方に、ミートスパゲティをお届けに」
「302号室やろ? ほら見てみ! ごはん頼んでるってことは、やっぱ居留守つこてたってことやんか!」
 状況を掴みかねている私に、初老の男性が口を開いた。
「きのうの夜中にな、ギターの音が響いとったみたいなんですよ。それでな、おそらくお隣の302号室の方ちゃうかってことで、ちょっとお話うかがおうとしてたとこなんですわ」
 深夜二時、アコースティックギターであいみょんをかき鳴らしつづけた302号室の住人に堪忍袋の緒が切れ、彼女は大家を伴って抗議に来た──要するに、そういう経緯らしかった。
「今日はこのへんでな、いったん引きあげて出直そかな思てましたさかい──」
「なに言うてんの! この配達の兄ちゃんの陰んとこで待ちかまえとったら、つかまえられるやんか!」
 巨大なトラが中央にプリントされたスウェット。手にはハリセン。およそ現実世界の住人とは思えない格好だが、ここは大阪なのだから仕方がない。よく見ると、そのハリセンはそよ風と彼女の貧乏ゆすりに揺れながらも、妙に剛性を感じさせた。
「わかる? アルミ板仕込んでんのやで」
 そう言って、彼女は素振りを始めた。風圧で、大家さんの白髪がなびく。想像してほしい。息をひそめて張り込みをやり過ごし、昼飯の合図にようやく安心してドアを開けた瞬間、そこにはおばちゃんが立っている。胸のトラと見分けがつかぬ怒気を顔にたたえ、ハリセンを振り上げて。
「まあまあ、奥さん。302号室の人もな、ついこのあいだ東京から越してきたとこやし──」
「ウチらは静かにしとくさかい、あんたピンポン押してきてや!」
 大家さんの制止もむなしく、おばちゃんは私にインターホンを押せと迫ってくる。しかたなく呼び鈴に指を伸ばすが、何度押しても反応はなかった。
「……出ませんね」
「ちょっと待っとったら出てくるわ」
 このまま居座る気らしい。どうにかして、彼女から情けのひとつでも引き出せないものか。
「彼にも事情があるのでしょう。急患だらけの土曜の救急で働いていれば、ストレスも溜まります」
「そんなん、みんな一緒やんか」
人手不足でナースステーションは阿鼻叫喚。受付はあくびばかりで手を動かさないし、患者さんは待ちきれなくて『まだですか』って何度も聞きに来る。そんな感じだと聞いてます」
「……それとギターは関係あらへんやろ。この部屋の人が非常識なだけやんか」
「そう責めないであげてください。人は誰しも、欠落を抱えて生きています。生まれついた条件や積み重ねてきた環境──」
「そんなん言うたかて、悪いもんは悪いんやで」
「ええ、もちろん。……でも、そのハリセンでぶたれるいわれもないでしょう。彼には他の趣味を勧めておきますから、今日のところは……」
 おばちゃんは不満そうな顔を崩さない。けれど、さすがに大家さんをこのままひき留めるのは気が引けたのだろう。「おおきに」と言い残し、彼女はしぶしぶ踵を返した。
「ほなついでやけどな、ゴミ捨て場のほうもな──」
 廊下の向こうで、おばちゃんが次の不満をぶつけはじめる。大家さんが解放される気配は、まだなさそうだ。
 結局のところ、どんな行為にもそれなりの理由はあるのだろう。人間の意志なんて本当はないと言っているように聞こえるかもしれないが、誰かを責め立てるよりはずっとましだ。他者の心は、相手を自分のことのように引き受けるときに、初めて現れるのだから。

 階段を降りていく二人の背中を見送ると、私はそっと302号室のドアを開けた。医療事務に加え、休日はこうして配達の副業。さすがに疲れていたのだろう。ふだんならイヤホンと練習用のエレキで指を慣らすところを、昨晩はうっかりアコギを鳴らしてしまったらしい。おばちゃんに、自分の正体を気づかれずに済んだのは幸いだった。
 私は息をつきながら、すっかり冷えたミートスパゲティを口に運んだ。

合わせ目 | 私じゃない日記

 頭上を舞う戦闘機が、散らされた手紙のようにほどけていく。何十年も東京を見下ろしてきた電波塔が、悲鳴とともに倒れていく。客人の出迎えはすべて失敗に終わった。人々に仰がれてきた価値の象徴が、あっけなく払い落とされていく光景を前に、私はふと、自分の過去を重ねていた。

 あまり大きな声では言えないが、私は十代の半ばまで、いわゆるブンドド遊びをしていた。セリフや効果音を空想で補いつつおもちゃを動かす、あの遊びだ。
 プラモデルのロボットをガチャガチャと動かしながら、私は部屋の隅でひとり、宇宙を組み立てていた。指先に伝わる硬質な感触の奥で、あるときは核融合炉の熱が脈打ち、あるときはガスタービンの唸りが響き、またあるときは、地球外生命体が遺した未知の構造体が呼吸していた。プラスチックの機体の内部には、たしかに無尽蔵のエネルギーがあった。私はそれを、手のひらで感じていた。
 たぶん、自分であって自分でない、誰かが欲しかったのだと思う。その頼もしいロボットは、現実世界のどうしようもなさ──母親に甘えられず、父親に頼れなかった少年時代の孤独に寄り添ってくれていた。だからだろうか。少なくとも、あのころは退屈で死にたいと思うことはあまりなかった。苦しくて死にたくなることは、ままあったけれど。
 しかし、その遊びもいつの間にかやめてしまった。自分の幼さに恥ずかしさを感じていたから──というのも事実だが、本当の理由は別にあった。プラスチックの合わせ目。かつては見えなかったそれが、大人に近づくにつれ、自然と目に留まるようになったのだ。継ぎ目を爪でなぞると、かすかな段差が乾いた音を立てる。カリッ、……カリッ。その音を聞くたび、私のなかの宇宙が少しずつしぼんだ。頼もしいロボットは、ただの素材へと──粗末なプラスチックの集合へと、戻っていった。

「ぜんぜん、来てくれないっすね」
「──? なにか言いました?」
 高価な戦闘機がまたひとつ、ひらひらと舞い落ちた。部屋に明滅が走る。巨大なモニターが、何千回と流してきたコマーシャルを最後に沈黙する。
 耳をそばだてると、彼女は肩をすくめ、弱音を繰り返した。先ほどから仲間がマイクに向かって呼びかけを続けてくれているが、今のところ、誰も駆けつけてはくれない。
「……もう少し、我慢しようか」
 私はもう一人の背中に、息を押し殺すように声を掛けた。地面に横たわる彼は、苦悶に咽びつつ、震える首を縦に振った。足もとには、痛々しく砕けたブロックやガラクタが散らばっている。私たちは途方に暮れていた。肉体の大きさも、過ごしてきた世界もまるで違う暴れん坊に、どう向き合えというのだろう。いつまで彼は、苦しみに臥していなければならないのだろう。
 彼に掛ける次の言葉を探していたそのとき。ふと、その視線の先──マイクと通信機器のそばに、あるものが転がっていることに気がついた。
「……興味があるのか?」
 シーグラス。それは、色のついた小石とも、光を失った宝石とも見えた。私はそれを彼女から受け取り、そっと彼の手のひらに置いた。
「変わってるな。今日君に見つからなかったら、裏の駐車場にでも投げ捨てられていただろう」
 彼はそれを見つめ、何かを探すように瞬きをした。沈黙が、ゆっくりと場を満たしていく。戦闘機も電波塔もモニターの明滅もブロックも──彼の視界から、遠ざかる。そして、なんでもない小石だけが、世界の中心に残った。
 その光景は、少年時代のあの音を想起させた。私を現実世界へと引き戻す、乾いた音。しかし、幼いころの私がそれに気が付かなかったというのは、間違いだったのかもしれない。

沈黙を裂いたのは、控えめなノックだった。
「来た! 来たよ!」
 彼はばね仕掛けのように跳ね起き、扉の向こうへ駆けていく。そこには、アパレルショップの紙袋を腕に提げ、肩で息をする女性が立っていた。度重なるアナウンスがようやく功を奏したようだ。何度も頭を下げるその背を見送ると、案内係の同僚は先ほど消した壁のモニターに再び電源を入れ、子ども向けのアニメから民放へと切り替えた。
「お母さん見つかってよかったっすね。努力の甲斐は、あんまり無かったですけど」
「んー」
 どうせ、この耳は半分も聞き取れない。私は生返事をして杖を突き、ベンチクッションに散ったブロックと、館内ガイドや商品カタログから切り抜いた玩具や観光名所の写真を掻き集めた。絵本、タブレット、音の出る人形――思いつく限りを差し出したが、効いたのは一片の石だけだった。同僚が一階ロビーの工芸体験で受け取ってきた、淡い青のシーグラス。まったく、最近の子どもの嗜好はわからない。半世紀以上も離れていると、まるで宇宙人を相手にしているような気分になる。
 少年はシーグラスを握ったまま安堵の笑みをこぼし、振り返りもせず母の手に引かれていった。小さな拳の中でその石は鈍く屈折し、いまも彼の視線を独り占めにしているのだろう。
 この世界は退屈で、寄る辺ない。ショッピングモールのカタログがどれほど眩しくても、母を見失った瞬間、それは紙くずに変わる。
 『頼もしい味方』が姿を現すのは、そんな孤独の井戸の底だ。丸み、擦り傷、光の屈折、ここに至るまでの物語――どれも凡庸に過ぎない、ありふれたただの石。にもかかわらず、彼のまなざしは、その石のかけがえのなさを──自分の分身を、目にしていたのだと思う。
 幼いころ、私は合わせ目が見えていなかったわけではないのかもしれない。見えていても、きっとどうでもよかったのだ。少年が石の素っ気なさに頓着しないのと同じように。私は、この手のひらにあるものが、ただそこにいてくれている、ということに陶酔していた。自分の求めていた価値が、現実世界のつまらなさと無関係であることを、ロボットが教えてくれているような気がして。

ボタンの感触 | 私じゃない日記

 排気音とともに、数名の女子学生が乗り込んできた。地域に新しい校舎が建ってから、この路線では制服を目にすることも多い。私は視線を向けぬよう俯き、そっと身を縮めた。胸元でネクタイがぐにゃりと歪む。彼女たちは小さな笑い声をこぼしながら私のすぐそばを通り過ぎ、バスの後方へと移動していく。混み合っているにもかかわらず、私の隣はぽつりと空いたまま、誰も腰を掛けようとはしなかった。彼女たちの内心で、「この席には座るまい」と判断が下されたということだ。行儀よく縮こまっている私の姿が、どこか滑稽に映ったのかもしれない。
 数日前からつづく自意識の膨張に自覚的ではあったものの、私はその手綱を握ることができずにいた。誰かが目の前を通過するたび、うっすらとした劣等感に襲われる。移動のあいだずっと、神経質のなすがまま、みじめな気分を味わっていた。
 ため息とともに降車口を出ると、歩道の熱気がまとわりついた。同じ停留所で降りた彼女たちはおしゃべりを続けている。背後から届く声の断片を、聞くともなく聞いてしまう。「ドライブに誘ってきた男がドアを開けてくれなかった」とか、「料金を割り勘にされた」とか。そんな話題が耳に届くたび、胸の奥が重くなった。
 もとは誰かの誠実だったものが、いまでは作法だけが歩き出し、当然のように消費されるマナーになっている。欠ければ軽視と受け取られかねず、気遣いはため息を飲み込みながら差し出されるものとなる。思いやりはもはや取引の一形態でしかなく、誠実さを信じている夢想家だけが、虚構の善意にまんまとほだされ、弄ばれる。
 結局のところ──異性に信頼を寄せること自体、幼稚なのだろう。

 やがて交差点にさしかかったとき、私は思わず息を呑んだ。右手のすぐそばに、信号の押しボタンがあったからだ。いつもの癖で歩道の内側を歩いていた私は、自然とボタンの目の前で足を止めていた。つまり、後方の彼女たちを代表して押すのは、私の役割ということになる。
 赤いボタンの中央は色が薄れ、浅いひっかき傷がいくつも走っている。手を伸ばす前だというのに、触れたときのざらついた感触が何度も頭を擦りつける。
 ──なんて、やるせないんだろう
 胸の奥から、陰鬱と怒りが込み上げた。つまり私は──空っぽの気遣いで信頼を築こうとしながら、平然と私を通り過ぎるほうの性のために、この指を伸ばさなくてはならなかったということだ。
 私は咄嗟の思いつきで鞄のなかをまさぐると、家のカギを探しあてた。その鋭い先端を、指の代わりにしてボタンを押そうとしたのだ──が、手が滑った。鍵は手のひらからすり抜け、冷たい音を立ててアスファルトに弾んだ。
「え、なにしてんの……」
 背後から、彼女たちの視線が刺さった。ボタンの前で不審な行動をする私を中心に、空気が沈んでいく。
 ──なんで
 なんで、あんなふうに突き放せるのだろう。
 何度も、一緒にこの道を二人で歩いたはずなのに。大切にされていると信じていたのに。
 私はついに堪えきれず、拾い上げた鍵を固く握りしめたまま、後ろにいた彼女へと歩み寄った。

「……なにしてんのってば、朱里」
 彼女──倉田はそう繰り返し、きょとんとした表情を浮かべた。第一ボタンを外し、制服のネクタイをゆるく締めている。その後ろでは他のクラスメイトが、挨拶代わりに私へ小さく手を振っていた。
「……倉田、私のこと避けてない?」
「へ? ……いやいや、あんた朝は彼氏と二人で来るから気ぃ遣って……え、どうした」
 目を見開いてあわてる倉田の姿が、かすかに滲み、頬を熱いものが伝った。
「……倉田が、『あいつは真面目で私好み』だって言ったから……もう男は信じない」
 数日前まで一緒に登校していた彼は、当然のように車道側を歩く、少し大仰で律儀な人だった。だから右手にある横断ボタンを押すのは、いつも私の役目だったのだ。けれどその彼は、誠実どころか、一言も残さずに私から離れていった。ボタンのざらついた感触を思い出すたび、あの憎たらしい顔が浮かび、空転気味の気遣いを心地よく感じていた自分がみじめに思えてくる。
「あー、あいつダメだったか……ごめんなあ」
 倉田は困ったように笑みを浮かべ、私の背を軽く叩いた。
「ひとりだと思い出しちゃうよな。明日はいっしょに来よ」
 信号は青。校門はすぐそこだった。